前川國男邸は、ル・コルビュジエのアトリエで学んだ建築家・前川國男が、自分と家族のために建てた住宅です。竣工は1942年。
戦時下の資材統制で鉄もコンクリートも使えない時期に、木造で近代建築の空間を成立させたことで知られます。
現在は東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築され、内部まで見学できます。
| 名称 | 前川國男邸 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都小金井市、江戸東京たてもの園(もとは品川区上大崎) |
| 設計 | 前川國男(1905〜1986年) |
| 竣工 | 1942年 |
| 構造 | 木造。切妻の大屋根の下に、吹き抜けの居間 |
| 移築 | 1973年に解体して部材を保管、1996年に江戸東京たてもの園へ移築・復元 |
| 見学 | 江戸東京たてもの園の開園時間内に、内部まで見学できる |
1942年、資材統制下の東京で建てられた
建てられたのは品川区上大崎。日中戦争から太平洋戦争へ向かう時期で、建築資材は統制下にあり、住宅の規模も厳しく制限されていました。鉄骨も鉄筋コンクリートも、民間の住宅には事実上使えません。
前川は1928年、東京帝国大学の卒業式当日にパリへ発ち、コルビュジエのアトリエで約2年間学んだ人です。
帰国後はアントニン・レーモンドの事務所を経て独立しましたが、戦前のコンペでは近代建築の案を出しては落選を重ねていました。自邸は、公共の場では実現できない考えを、自分の敷地で試す場所になりました。
大屋根の下にひとつの吹き抜けを置く
外観は、大きな切妻屋根をかけた、一見すると和風にも見える木造住宅です。ところが中に入ると印象が一変します。
屋根の形がそのまま現れた、天井の高い吹き抜けの居間が住宅の中心にあり、南面は木製建具のガラス面が大きく開きます。
2階は吹き抜けに面したロフト状の空間で、居間を見下ろす構成です。個室を並べて廊下でつなぐ従来の間取りではなく、大きなひとつの空間に小さな部屋がぶら下がるという組み立てになっています。
コルビュジエが住宅で繰り返した「二層分の高さを持つ居間」の構成を、木造の架構で翻訳したものと読めます。
制約が生んだ設計判断
この住宅の面白さは、制約を隠さずに使っている点にあります。延べ面積が制限されるなら、間仕切りを減らして体積で広さをつくる。鉄が使えないなら、木の架構で大スパンを解く。
統制という不自由が、結果として空間の骨格を単純で強いものにしました。
仕上げも素直です。柱と梁は現しで、壁は板張り。装飾のための部材はほとんどありません。それでいて貧しさを感じさせないのは、比例と光の設計が効いているからです。
前川は後年「建築の理論を最後まで押し進める力は、建築家自身の生活意識そのものである」という趣旨の言葉を残しています。理論を語るだけでなく、自分の生活で実証する。自邸はその宣言の実物でした。
前川國男の名言と出典 もあわせてご覧ください。
パリで学んだ人が、木で建てた意味
コルビュジエの弟子が木造の家を建てた、という事実は、単なる妥協ではありません。前川は生涯を通じて、輸入された近代建築が日本の気候と技術に根づくかどうかを問い続けた人です。
戦後の打放しコンクリートが雨で汚れる現実に対して、外装タイルを型枠に打ち込む「打ち込みタイル」を開発したのも、その問いの延長にあります。
木造の自邸は、その最初の実験と位置づけられます。近代建築の空間の考え方は、鉄とコンクリートという材料に依存しない。日本の在来の技術でも成立することを、自分の家で示しました。
解体、保管、そして移築
前川はこの家に長く住み、住宅は1973年に解体されました。ただし部材は廃棄されず、保管されます。その後、1996年に江戸東京たてもの園(小金井市)へ移築・復元され、一般公開されました。
昭和の木造住宅は、残そうという意思がなければ残りません。解体時に部材を保管するという判断があったからこそ、現在この住宅を実際に歩いて体験できます。
日本の近代住宅のなかで、内部まで自由に見学できる数少ない実例です。
いまは内部まで見学できる
江戸東京たてもの園は、歴史的建造物を移築保存する野外博物館です。前川國男邸は園内の西ゾーンにあり、開園時間内であれば内部に入って吹き抜けの居間を体験できます。
写真では大屋根の外観が印象に残りますが、この住宅の核心は中に立ったときの天井の高さと光です。休園日や開園時間は変わることがあるため、訪問前に公式の最新情報をご確認ください。
パリのアトリエにいた2年間
前川がコルビュジエのアトリエにいたのは、1928年から1930年までの約2年間です。ちょうどサヴォア邸の設計が進められていた時期にあたります。
アトリエでは、世界中から集まった若い建築家たちが、コルビュジエの住宅や都市の計画の図面を描いていました。
近代建築の最前線を、その中心で見た経験が、帰国後の前川の出発点になりました(ル・コルビュジエの日本人弟子)。
戦時下の住宅の制限
この家が建てられた1940年代初め、日本では戦争のために資材の使用が厳しく統制されていました。新しく建てる木造住宅にも、延べ面積の上限が設けられていました。
前川は、その限られた床の面積の中で、床を広げるのではなく、天井を高くして空間を大きく感じさせる方法を選びました。
制限があったからこそ生まれた吹き抜けの居間は、今見ても驚くほど広々とした印象を与えます。
居間の大きな窓と障子
居間の南側は、床から天井近くまで届く大きなガラス面になっています。その内側には障子が組み込まれ、光の入り方を調整できます。
近代建築の大きな窓と、日本の住まいの障子。二つの考え方が、一つの窓辺で重なっているのです。
晴れた日には、障子を通したやわらかな光が吹き抜けいっぱいに広がります。季節や時間によって、光の表情も少しずつ変わります。
江戸東京たてもの園で一緒に見たい建物
江戸東京たてもの園には、前川國男邸のほかにも、近代の名作住宅がいくつも移築されています。
たとえば、建築家・堀口捨己が設計した小出邸(1925年)も移築されています。この住宅は、日本の伝統とヨーロッパの新しい建築を組み合わせた住宅として知られます。
同じ時代の建築家たちが、それぞれの方法で「日本の近代住宅」を探った跡を、一日で見比べることができます。
前川國男のその後の代表作
戦後の前川は、日本の近代建築を代表する建築家として、公共建築を数多く手がけました。
神奈川県立図書館・音楽堂(1954年)、上野の東京文化会館(1961年)、東京海上ビルディング(1974年)などがあります。
木造の自邸で始まった「日本の条件で近代建築を成り立たせる」という挑戦は、こうした大きな建物へと引き継がれていきました(前川國男と東京)。
前川國男をさらに読む
前川國男は、コルビュジエの三人の日本人直弟子のひとりであり、戦後は東京文化会館や国立西洋美術館の実施設計などを通じて、日本の近代建築を牽引しました。
弟子たちの系譜は コルビュジエの日本人の弟子たち、東京に残る前川の仕事は 前川國男と東京、その言葉は 前川國男の名言と出典 にまとめています。
前川の事務所で学んだ丹下健三については 丹下健三の名言と出典 を、その自邸は 丹下健三自邸 をご覧ください。
前川と同じ時期にレーモンド事務所に在籍した吉村順三が自らのために建てた山荘は 軽井沢の山荘 で紹介しています。

