「コルビジェと3人の日本人弟子」—前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が見た師の素顔

「コルビジェと3人の日本人弟子」—前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が見た師の素顔

パリのセーヴル街35番地を目指した日本人たち

1920年代から50年代にかけて、ル・コルビュジエのもとで学ぶため、はるばる日本からパリのセーヴル街35番地にあるアトリエを叩いた若き建築家たちがいました。当時の日本はまだ近代建築の黎明期。彼らはシベリア鉄道に乗り、言葉も通じない異国の地で、最先端のモダニズム建築を吸収し、日本に持ち帰るという大きな使命感を持っていました。

コルビジェは非常に厳格な師であり、アトリエの環境は過酷でした。しかし彼は、東洋から来た礼儀正しく、恐るべき集中力と器用さを持つ日本人弟子たちを高く評価し、温かく受け入れました。言葉の壁を越え、図面と模型、およびスケッチを通じて交わされた師弟の「線」の対話が、日本の建築界を大きく変えることになるのです。

前川國男:日本の気候風土との戦い

最初に門を叩いたのが前川國男です(1928-1930年在籍)。彼は師から「近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園など)」を学びましたが、帰国後、大きな壁にぶつかりました。ヨーロッパとは異なる日本の高温多湿な気候、台風、および建築の伝統としての木造です。

彼は師の教えをそのままコピーするだけでは、日本では通用しないと悟りました。そこで彼は、日本の風土に合わせて師の理論を「翻訳」することに苦心しました。コンクリートの外壁にタイルを打ち込んで耐久性を高める「打ち込みタイル」工法や、深い軒(のき)を出して雨から建物を守るデザインなど。彼が編み出した手法は「日本的モダニズム」として結実し、上野の東京文化会館などの傑作を生み出しました。彼は師の理論を、日本の技術でタフに進化させたのです。

坂倉準三:師に認められた唯一の日本人

前川と入れ替わりで渡仏した坂倉準三(1931-1936年在籍)は、弟子の期間が最も長く、アトリエ長(チーフ)を務めるほどコルビジェの全幅の信頼を得ました。彼は師の建築思想を最も純粋に受け継いだと言われています。

彼の才能が爆発したのは1937年のパリ万博日本館の設計でした。このパビリオンは、なんと師のコルビジェ自身のパビリオンと並んで建設され、コルビジェから「私の弟子の中で最も優秀だ。この建築は素晴らしい」と絶賛され、建築のゴールドメダル(グランプリ)を受賞しました。彼はまた、家具デザインの才能も開花させました。日本の竹籠の技術を応用し、シェーズ・ロングのような快適さを木材で実現した「低座椅子」など、和洋が融合した美しい家具を数多く残しています。

吉阪隆正:師の「人間臭さ」を伝えた冒険家

戦後、最後にアトリエに入ったのが吉阪隆正です(1950-1952年在籍)。彼は登山家でもあり、ユニークな視点で師を観察しました。彼が学んだのは、合理的な建築理論よりも、むしろコルビジェの「人間臭い側面」や、泥臭い思考プロセスでした。

彼は、師が晩年に到達した「ロンシャンの礼拝堂」のような、論理を超えた彫刻的で有機的な造形に強く影響を受けました。「建築はもっと自由でいいのだ」。吉阪はそう捉え、自身の建築(大学セミナーハウスなど)でも、コンクリートを大地のように隆起させ、生命力あふれる空間を作りました。また、彼は教育者としても優れており、多くの学生を育て、コルビジェの自由な精神と「有孔体(スポンジのように穴の空いた空間)」の理論を次世代へ伝えました。

奇跡の協働:国立西洋美術館

この3人の弟子たちが一堂に会し、師コルビジェを支えて実現させたプロジェクトがあります。それが東京・上野にある「国立西洋美術館(1959年竣工)」です。日本で唯一のコルビジェ建築であり、現在は世界遺産に登録されています。

特筆すべきは、基本設計はコルビジェが行いましたが、フランスにいる師の代わりに、詳細な実施設計と現場監理を行ったのは3人の弟子たちだったということです。彼らは師の意図を汲み取りながら、日本の厳しい法規制や技術的制約の中で、最高傑作を作るために奔走しました。「無限成長美術館」という師のコンセプトを実現するために、彼らが注いだ情熱と技術。国立西洋美術館は、師への恩返しであると同時に、師の教えがいかに深く日本に根付いたかを示す、師弟愛の結晶とも言える記念碑なのです。