前川國男(1905-1986)は、ル・コルビュジエのパリのアトリエで学んだ最初の日本人です。日本に近代建築を根づかせた立役者でありながら、その言葉には楽観がありません。近代建築が日本で何を失ったかを、生涯にわたって語り続けた人でもありました。
卒業式の日にパリへ発った
前川國男は1928年、東京帝国大学の卒業式当日にシベリア鉄道へ乗り込み、パリのコルビュジエのアトリエへ向かいました。学位授与式に出ずに旅立ったこの逸話は、日本の建築界で広く語り継がれています。
アトリエには約2年間在籍しました。帰国後はアントニン・レーモンドの事務所を経て独立し、戦後は東京文化会館、東京都美術館、埼玉県立博物館などを手がけます。コルビュジエの直弟子であり、その最大の紹介者であり、同時に批判者でもあったという三重の立場が、彼の言葉を複雑にしています。
1. 「生えている樹木は、切ったら死ぬ」
出典:前川の言葉として伝えられているものです。
意味と解説:
根を張った土地から切り離されたものは生きられない、という趣旨です。前川にとって、それは日本に移植された近代建築そのものを指していました。
彼が晩年に取り組んだ「打ち込みタイル」の工法は、この認識の実践です。コンクリートの型枠にあらかじめタイルを仕込み、打設と同時に一体化させる。日本の気候で打放しコンクリートが劣化する現実に、正面から応えた技術でした。師から受け取った素材を、そのまま使わなかったのです。
2. 「建築の理論を最後の一歩まで押し進める力は、建築家自身の生活意識そのものである」
出典:前川の論考に見られる趣旨の主張です。
意味と解説:
理論を完遂させるのは論理ではなく、設計者がどう生きているかだ、という主張です。口でも手でもなく生活だ、という言い方をしています。
この考えを自邸で実行しました。1942年、戦時下の資材統制のもとで建てた木造の自邸は、限られた材料と面積で近代建築の空間を成立させる試みでした。現在は江戸東京たてもの園に移築されています。
3. 「負ければ賊軍」
出典:戦前のコンペで敗れた際の言葉として伝えられています。
意味と解説:
1931年の東京帝室博物館(現・東京国立博物館)のコンペで、前川は近代建築の案を提出しました。応募規定には「日本趣味を基調とする東洋式」という条件があり、彼の案は当然のように落選します。
敗北を承知で原則を通した、という文脈で語られる言葉です。負けると分かっている勝負に、あえて出した。安藤忠雄の『連戦連敗』にも通じる態度が、30年以上早く現れています。
4. 「日本の近代建築は、まだ根を張っていない」
出典:晩年の論考や対談でくり返された趣旨の認識です。
意味と解説:
日本に近代建築を持ち込んだ当人が、その定着を疑い続けたことになります。
前川が問題にしたのは、様式としては受け入れられても、それを支える社会の仕組みが伴っていないという点でした。建築を輸入することと、建築を生む条件を輸入することは違う。
5. 「技術は、思想の裏づけを持たなければならない」
出典:前川の論考に見られる趣旨の主張です。
意味と解説:
丹下健三の「技術は人間の意志に奉仕するものでなければならない」と、ほぼ同じ内容です。丹下は前川の事務所で実務を学びました。師から弟子へ受け渡された命題と読めます。
そしてこの命題自体、コルビュジエのアトリエで前川が受け取ったものでもあります。丹下健三の名言と出典 と読み比べてみてください。
師を批判した弟子として
1955年11月、ル・コルビュジエが来日して上野を視察し、翌1956年に国立西洋美術館の基本設計書を日本へ送りました。実施設計を担ったのは、前川國男・坂倉準三・吉阪隆正という三人の直弟子です。
師の建築を日本の地に建てるという、弟子としては最高の仕事でした。それでいて前川は、日本に移植された近代建築の限界を語り続けます。賛美者ではなく、検証者として師に向き合ったことが、彼の言葉に独特の重さを与えています。
前川國男の仕事は 前川國男と東京、三人の弟子の関係は コルビュジエの日本人の弟子たち、国立西洋美術館については 国立西洋美術館 をご覧ください。

