AEGタービン工場は、ペーター・ベーレンスが1909年にベルリンに建てた発電用タービンの組立工場です。工場という実用の建物を、正面から建築として設計した最初期の例です。
この建物を生んだベーレンスの事務所には、グロピウス、ミース、そして後のル・コルビュジエが、ほぼ同じ時期に在籍していました。
| 名称 | AEGタービン工場(AEG-Turbinenfabrik) |
|---|---|
| 所在地 | ドイツ・ベルリン、モアビット地区 |
| 設計 | ペーター・ベーレンス(構造:カール・ベルンハルト) |
| 完成 | 1909年 |
| 施主 | AEG(ドイツ総合電機会社) |
| 構造 | 鉄骨の門型フレームと大きなガラス面。のちに長さが延長された |
| 現在 | 現役の工場として使われている。外観は通りから見られる |
工場が建築家の仕事になった日
20世紀初頭まで、工場は技師が架構を組む実用の構築物であって、建築家が腕を振るう対象ではありませんでした。AEG(ドイツ総合電機会社)は、その常識を変えた会社です。
急成長する電機産業は、自らの力を社会に示す顔を必要としていました。AEGは1907年、ベーレンスを芸術顧問に迎えます。産業が建築家を雇い、工場が企業の顔になる。
タービン工場はその方針の最初の大きな成果でした。
鉄とガラスの神殿
建物の主体は、巨大なタービンを吊って動かすための鉄骨の門型フレームです。側面には鉄骨の柱が等間隔に並び、そのあいだを大きなガラス面が埋めます。妻面には多角形の大きな切妻が載る。
この正面の構えから、タービン工場はしばしば「労働の神殿」と形容されてきました。柱が並び、切妻を戴く構成は、ギリシャ神殿の記憶と重なります。産業の建物に、神殿の威厳を与える。
実用と象徴を一つの架構で兼ねさせたことが、この建物の発明でした。
コーナーの重さが語るもの
興味深いのは建物の四隅です。コーナーは重々しい量塊として仕上げられていますが、構造を担っているのは鉄骨のフレームのほうで、この重さは見た目の効果として与えられたものです。
つまりベーレンスは、構造の正直さより記念碑性を選びました。後の近代建築は、まさにこの点を乗り越えようとします。ミースが生涯かけて追求したのは、コーナーを構造の論理どおりに軽く解くことでした。
師の代表作の「嘘」が、弟子の生涯の課題になったと読むこともできます。ミース・ファン・デル・ローエの名言と出典 をご覧ください。
AEGという会社を丸ごとデザインした
ベーレンスの仕事は建物にとどまりません。AEGのロゴ、ポスター、カタログ、電気ケトルや扇風機などの製品まで、会社が世に出すものの全体を設計しました。
今日の言葉でいうコーポレート・アイデンティティの最初期の実例です。
製品を規格部品の組み合わせで展開する手法も、この仕事で試されています。建築、グラフィック、プロダクトをひとりの設計者が束ねるという職能の姿は、後のバウハウスの教育構想に直接つながりました。
グロピウスの名言と出典 とあわせてご覧ください。
画家から建築家になったベーレンス
ペーター・ベーレンス(1868〜1940年)は、もともと画家として活動していました。やがて工芸やデザインに関心を移し、ダルムシュタットの芸術家村で、自邸を含む建物を手がけます。
建築の専門教育を受けずに建築家になった点は、のちのコルビュジエとも共通しています。
絵画、工芸、建築、製品のデザインを行き来したベーレンスの幅広さが、AEGの総合的なデザインを可能にしたのです。
ドイツ工作連盟とのつながり
1907年、ドイツでは、工業製品の質を高めることを目指す団体「ドイツ工作連盟」が結成されました。ベーレンスは、その中心的なメンバーの一人でした。
職人の手仕事と、機械による大量生産をどう結びつけるか。タービン工場やAEGの製品は、工作連盟の考え方を実際の形にした例でもあります。
20年後の1927年、同じ工作連盟がシュトゥットガルトで開いた住宅展に、ベーレンスの事務所を通過したミースとコルビュジエが参加することになります(ヴァイセンホーフ・ジードルング)。
神殿と工場のあいだ
タービン工場の正面は、ギリシャ神殿を思わせる構えをしています。ベーレンスは、新しい工業の建物にも、古典建築の威厳と秩序を与えようとしました。
この古典への関心は、ベーレンスのほかの建物にも見られます。そこが、装飾を捨て、軽さを求めた次の世代との大きな違いでした。
古典と近代のあいだに立つ建物だからこそ、タービン工場は、近代建築の出発点として繰り返し論じられてきたのです。
見る人によって「最後の古典建築」とも「最初の近代建築」とも読める。その二重性こそが、この工場のいちばんの魅力だといえます。
構造技師カール・ベルンハルト
タービン工場の鉄骨の構造を担当したのは、技師カール・ベルンハルトでした。
巨大なタービンを吊り上げて運ぶクレーンを支えるため、建物には強い門型のフレームが必要でした。建築家と技師が協力して、実用の構造に建築の表情を与えたのです。
建築家が形を考え、技師が構造を解く。その協働の姿も、20世紀の建築の新しいあり方を先取りしていました。
グロピウスのファグス工場へ
ベーレンスの事務所で働いたヴァルター・グロピウスは、独立後の1911年、ドイツのアルフェルトにファグス工場を設計しました。
ファグス工場では、建物の角に柱を置かず、ガラスの壁がそのまま角を回り込んでいます。師が重々しく見せた角を、弟子は透明に解いたのです。
タービン工場とファグス工場を並べると、わずか2年のあいだに、工場建築の表現が大きく動いたことが分かります(デッサウのバウハウス校舎)。
100年以上たっても現役の工場
タービン工場は、完成から100年以上たった今も、タービンをつくる工場として使われ続けています。
1930年代には建物が延長され、当初よりも長くなりました。用途を変えずに使われ続けていることが、この建物の設計の確かさを物語っています。
内部は工場のため一般には公開されていませんが、通りから外観を見ることができます。ベルリンを訪れたら、近代建築の出発点の一つとしてぜひ訪ねてみてください。
この事務所を三巨匠が通過した
1908年から1912年ごろのベーレンス事務所には、後の近代建築を担う若者が集まっていました。
ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてスイスから来たシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ――後のル・コルビュジエです。
在籍した時期は一部しか重なっていませんが、三人が同じ事務所を通過した事実は、近代建築が一つの根から分岐したことを示す、もっとも分かりやすい証拠です。
産業と建築の結びつき、規格化、企業のための総合デザイン。
ベーレンスの事務所は、近代建築の教室でした。
若きジャンヌレが見たもの
ジャンヌレがベルリンのベーレンスのもとで働いたのは1910年から1911年にかけての数か月です。ここで彼は、工業生産と規格化の現場に触れました。
その直後、彼は東欧からトルコ、ギリシャへ向かう長い旅に出ます。産業の最前線を見た足で、古代の神殿と修道院を見に行った。
この落差が、後の「住宅は住むための機械である」と「建築は光のもとの立体の戯れである」という二つの主張(いずれも著書『建築をめざして』、1923年)の源流になります。
旅については 東方への旅、雑誌での主張は エスプリ・ヌーヴォー をご覧ください。

