ル・コルビュジエが有名になった経路をたどると、建物より先に一冊の雑誌が出てきます。『レスプリ・ヌーヴォー(新精神)』。1920年にパリで創刊されたこの雑誌がなければ、『建築をめざして』も、ル・コルビュジエという名前も存在しませんでした。
建築家が自分で媒体を持つということ
当時のジャンヌレは、まだ実作のほとんどない30代前半の建築家でした。建てた建物で評価される道は、時間がかかります。
彼が選んだのは別の道でした。自分で雑誌をつくり、そこで自分の主張を展開する。作品が世に出る前に、作品を評価する枠組みのほうを先に用意してしまう手法です。
1920年、パリで創刊された
創刊は1920年10月。中心となったのは、画家のアメデ・オザンファン、詩人のポール・デルメ、そしてジャンヌレの三人です。
ジャンヌレとオザンファンは、1918年に共同で『キュビスム以後』を発表し、ピュリスム(純粋主義)と呼ばれる絵画運動を起こしていました。雑誌はその運動の機関誌として構想されています。刊行は1925年まで、全28号を数えました。
「ル・コルビュジエ」という名前はここで生まれた
この雑誌の最大の副産物が、ペンネームです。「ル・コルビュジエ」は、誌面で建築論を書くために作られた筆名でした。
母方の家系の姓に由来する語をもとにした名前とされます。少人数で編集していた雑誌が、多数の書き手を抱えているように見せる必要もありました。オザンファンも別の筆名を使っています。
つまり世界的な建築家の名前は、雑誌の編集上の都合から生まれたことになります。本名のシャルル=エドゥアール・ジャンヌレは、絵画の署名として使い続けました。
『建築をめざして』はこの雑誌の記事だった
1923年に刊行された『建築をめざして』は、書き下ろしではありません。『レスプリ・ヌーヴォー』に発表した論考をまとめ直したものです。
「住宅は住むための機械である」という一句も、この本に収められています。パルテノン神殿と自動車を並べた図版、船と飛行機の写真。雑誌という形式だからこそできた、写真と短い文章の組み合わせが、そのまま本になりました。
論の運び方が、論文ではなく雑誌記事の呼吸でできている。この本が読みやすく、引用しやすい理由はここにあります。ル・コルビュジエの名言10選とその真意を読み解く で扱う言葉の多くも、この本に由来します。
建築だけの雑誌ではなかった
誌名の「新精神」が示すとおり、扱う範囲は建築に限りません。絵画、彫刻、音楽、文学、演劇、科学、経済、スポーツ。近代という時代そのものを主題にしていました。
この幅の広さは、コルビュジエの建築論の性格を決めています。彼が建築を語るとき、いつも自動車や飛行機や客船が引き合いに出されるのは、雑誌の編集方針そのものです。建築を建築だけで論じないという姿勢が、ここで形づくられました。
1925年のパヴィリオンという実物
1925年、パリで開かれた現代装飾美術・産業美術国際博覧会に、「レスプリ・ヌーヴォー館」が出展されます。雑誌の名前を冠した実物の建物でした。
装飾美術の博覧会でありながら、この館には装飾がありませんでした。量産可能な住戸を実物大で示し、家具も既製品を使う。雑誌で主張してきたことを、そのまま建てて見せたわけです。
同じ博覧会の会場で、コルビュジエはパリ中心部を高層建築に建て替える「ヴォアザン計画」も展示しています。ヴォアザン計画 をご覧ください。
オザンファンとの決裂
雑誌は1925年に終刊します。ジャンヌレとオザンファンの関係も、この時期に悪化しました。
原因については諸説あり、一次資料での確認には至っていません。ただ、共同で始めた運動のなかでジャンヌレの側が建築家として名を高めていったこと、雑誌の実務的な負担が偏っていたことなどが背景として語られます。
なお、オザンファンのためにコルビュジエが設計した住宅兼アトリエ(1922年、パリ)は現存します。決裂の前に建てられた、二人の関係の物証です。
自分で言葉を配る建築家の系譜
建築家が自分で媒体を持ち、作品より先に言葉を流通させる。この手法はコルビュジエの発明ではありませんが、彼ほど徹底した例は多くありません。
そしてこの態度は、後の建築家に受け継がれました。丹下健三も磯崎新も隈研吾も、設計と並行して大量に書いています。設計と執筆を一体の活動とみなす態度の源流の一つが、1920年のパリにあります。
丹下健三の名言と出典、隈研吾の名言と出典 もあわせてご覧ください。

