テルメ・ヴァルスとは|ズントーが山の石を積んでつくった温泉建築

テルメ・ヴァルスの外観

テルメ・ヴァルスは、スイス東部グラウビュンデン州の山あいの村ヴァルスに、1996年に完成した温泉施設です。設計はスイスの建築家ピーター・ズントー。

地元で採れる石を薄い板にして積み重ね、斜面に埋め込むように建てたこの温泉は、素材と光で体験をつくる建築の代表例として知られ、現在は「7132テルメ」の名でホテルとともに運営されています。

アルプスの谷の、小さな温泉村

ヴァルスは、アルプスの谷の奥にある人口の少ない村です。この地には古くから温泉が湧き、湯治の場として知られてきました。

ズントーの温泉施設は、その源泉の上に、既存のホテルに付属する浴場として計画されました。

完成は1996年。山の村の温泉が、世界中から建築を目当てに人が訪れる場所へと変わるきっかけになりました。

ズントーは2009年にプリツカー賞を受賞しており、この温泉はその評価を決定づけた作品のひとつです。

現在、施設は「7132」というブランドのもとでホテルと一体で運営されています。7132は、ヴァルスの郵便番号です。

地元の石を、薄い板にして積む

この建物の壁は、ヴァルスで採れる石を切り出した細長い石板を、何層にも積み重ねてつくられています。海外の資料では、使われた石板は約6万枚とされています。

厚さの異なる石板を積み、その間にコンクリートを組み合わせることで、壁は一枚岩のようでありながら、近づくと細かな層の重なりが見える表情になりました。地層を思わせる壁です。

ズントーは、その土地の材料が持つ重さや温度、手ざわりを重視する建築家として知られます。石の壁は、湯の温度や湿気と相まって、見るだけでなく肌で感じる建築をつくり出しています。

温泉と建築の関係

ヨーロッパには、古代ローマの浴場に始まる長い温浴文化があります。一方で、20世紀の温泉施設の多くは、機能的なプールやリゾートホテルの一部として建てられてきました。

テルメ・ヴァルスは、そうした流れとは異なり、湯に浸かるという行為そのものを、静かで儀式的な体験としてとらえ直しました。

明るく開放的なレジャー施設ではなく、洞窟や石切り場のような薄暗い空間の中で、湯と石と光に向き合うのです。

湯に浸かる文化をもつ日本の読者にとっては、露天風呂や湯治場の感覚と通じるところもあるかもしれません。

建物が主役になるのではなく、湯と身体の関係を引き立てるという点で、この建築は温泉建築の考え方を大きく変えました。

断面で読む:斜面に埋め込まれた量塊

テルメ・ヴァルスの斜面に埋め込まれた断面構成を示した解説ダイアグラム

テルメ・ヴァルスは、谷の斜面に半ば埋め込まれるように建っています。屋根は草で覆われ、山側から見ると建物はほとんど目立ちません。洞窟や石切り場にたとえられることが多い配置です。

断面で見ると、斜面を掘り下げた位置に浴槽のある大きな空間が広がり、その上を草の屋根が覆っています。谷側には開口が設けられ、湯に浸かりながら外の山の景色を眺められます。

屋根は、石の壁で支えられた大きな板が組み合わさってできており、板と板のあいだの細い隙間から光が落ちると紹介されています。暗い石の空間に、線のような光が差し込む。

光の量をあえて抑えることで、湯と石の存在感が際立ちます。

光と湯をめぐる順序

この温泉では、浴槽がひとつの大空間に並ぶのではなく、石のブロックのあいだに大小さまざまな浴室が配置されています。

温度の違う湯や、閉じた小部屋、外に開いた浴槽を、利用者は探検するようにめぐっていくことになります。

通路の先に何があるかが最初から見えない構成は、歩くことで空間が少しずつ明らかになる体験を生みます。

これは、ル・コルビュジエが住宅や美術館で試みた「建築的プロムナード」とも通じる考え方です(建築的散歩を体感する)。

ただしズントーが扱うのは、白い壁と明るい光ではなく、石と湯と薄暗さです。

光の演出という点では、厚い壁の小さな開口から光を落とす ロンシャンの礼拝堂 や、安藤忠雄の 光の教会 と比べて読むと、違いと共通点が見えてきます。

完成から間もなく、保護の対象に

テルメ・ヴァルスは、完成からわずか2年ほどで保護の対象となる建物に指定されたとされています。新しい建築が、これほど早く文化財として扱われるのは異例のことです。

その評価の理由は、奇抜な形ではなく、素材と場所に根ざした建築のあり方にありました。山の石で、山の湯を包む。その土地でしか成り立たない建築として、20世紀末の建築界に大きな影響を与えました。

同じズントーの作品としては、ドイツの畑の中に建つ ブラザー・クラウス野外礼拝堂 も、素材と光の扱いで知られています。

二つを並べると、ズントーが「つくり方」そのものを建築の表現にしていることがよくわかります。

写真ではなく、体で知る建築

テルメ・ヴァルスは、写真で見るよりも、実際に体験することで評価が定まった建物だといわれます。石の壁の冷たさ、湯の温かさ、湿った空気の匂い、足音の反響。

視覚以外の感覚に訴える要素が、この建築の大部分を占めているからです。

浴槽ごとに湯の温度が異なり、閉じた小部屋では音がこもり、外に開いた浴槽では山の風が肌に触れます。利用者は、温度や音、明るさの違いを確かめながら、自分のペースで施設の中をめぐることになります。

ズントーは、建築が人の記憶や感覚にどう働きかけるかを考え続けてきた建築家として知られます。

テルメ・ヴァルスは、「何を見せるか」より「どう感じさせるか」を設計の中心に置いた建築の、もっとも有名な実例のひとつです。

ピーター・ズントーという建築家

ピーター・ズントーは1943年にスイスのバーゼルで生まれ、家具職人としての修業を経て建築を学びました。グラウビュンデン州で文化財保護の仕事に携わったのち、ハルデンシュタインの村に事務所を構えています。

ズントーは、大きな事務所を構えて世界中で数多くの建物を手がけるのではなく、限られた数の仕事に長い時間をかける建築家として知られます。

代表作には、テルメ・ヴァルスのほか、ブレゲンツ美術館、ケルンのコロンバ美術館、ノルウェーの記念施設などがあります。

職人としての経験は、素材の性質や継ぎ目の納まりへの強いこだわりとして、ズントーの建築に表れています。石を薄く切って積むというテルメ・ヴァルスの壁も、素材を知り尽くした人ならではの発想といえるでしょう。

訪れるには

温泉施設は、ホテル「7132」の一部として運営されています。宿泊者以外の利用には、時間帯や人数の制限があるとされ、予約が必要な場合があります。

利用条件や料金は変わることがあるため、公式サイトで最新の情報を確認してください。

ヴァルスへは、スイス国鉄の駅からバスを乗り継いで向かいます。山あいの村のため、季節によって交通の便が変わる点にも注意が必要です。

浴場内は撮影が制限されていることが多い場所です。写真で見る印象と、湯に浸かって石の壁と光を体で感じる体験はまったく異なります。

建築を学ぶ人にとっては、図面や写真では伝わらないものを確かめに行く価値のある場所です。

ヴァルスの村には、同じ石を使った古い家々の屋根も残っています。村の石屋根と温泉の石壁を見比べると、ズントーがこの土地の材料と伝統をどう受け継ぎ、どう新しくしたかがよくわかります。

温泉だけでなく、村の中を少し歩いてみることをおすすめします。建物を外から眺めると、草に覆われた屋根が斜面の一部に見え、どこまでが山でどこからが建築なのかがわからなくなる。

その曖昧さこそが、この温泉の設計の核心です。

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