ヒル・ハウスは、チャールズ・レニー・マッキントッシュが1904年、グラスゴー近郊の海辺の町ヘレンズバラに完成させた住宅です。
外観はスコットランドの伝統に根ざした灰色の塊、内部は白と光でできた、当時どこにもなかった室内。近代の住宅インテリアの出発点のひとつとされる家です。
| 名称 | ヒル・ハウス(The Hill House) |
|---|---|
| 所在地 | イギリス・スコットランド、グラスゴー近郊の町ヘレンズバラ |
| 設計 | チャールズ・レニー・マッキントッシュ(内装は妻マーガレット・マクドナルドと協働) |
| 完成 | 1904年(1902年設計) |
| 施主 | 出版社経営者ウォルター・ブラッキー |
| 特徴 | 灰色の外観と、白を基調とした室内。家具まで一貫したデザイン |
| 管理 | ナショナル・トラスト・フォー・スコットランド |
| 保存 | 2019年から、建物全体を覆う金網の「箱」で雨から守りながら修復 |
出版人が建てた郊外の家
施主は出版人のウォルター・ブラッキー。グラスゴーの出版社の経営者で、家族のための家を郊外の高台に求めました。
ブラッキーは流行の様式住宅を望まず、実用と質を重んじる進歩的な施主でした。マッキントッシュに設計を委ね、家具や内装まで一貫して任せます。建築家に総合を許す施主がいたことが、この家の完成度の前提です。
外はスコットランド、中は新世紀
外観は、スコットランドの伝統的な塔状住宅(バロニアル様式)の記憶を継いだ、粗い灰色のモルタル塗り(ハーリング)の量塊です。装飾はほとんどなく、勾配屋根と円塔が簡潔な影絵をつくります。
ところが玄関を入ると、時代が変わります。淡い色の壁、細い木の線、計算された光。外は土地の過去に、内は来るべき世紀に属している。この内外の落差こそ、マッキントッシュの設計の核心でした。
白い寝室と黒い椅子
もっとも名高いのが主寝室です。白い壁に、淡い薔薇のステンシル。そこに置かれた黒い、異様に背の高い梯子状の椅子(ラダーバック・チェア)が、白い空間を引き締めます。
この椅子は座るための道具である以上に、空間を分節する建築の部品です。家具を建築の延長として設計する態度は、後の アイリーン・グレイ や コルビュジエのLCシリーズ に先行しています。
ウィーンへ渡った白
マッキントッシュの室内は、1900年にウィーン分離派の展覧会へ招かれ、大陸の作り手たちに強い印象を与えました。ウィーン工房のホフマンらが受け取った白と幾何学は、やがて ストックレー邸 に結晶します。
グラスゴーの白い室内 → ウィーンの幾何学 → 装飾の削ぎ落とし、という流れの先に、ロースの シュタイナー邸 や近代建築の白があります。白い抽象は、パリの発明ではなく、北からの長い旅の到達点でした。
雨に溶ける家と「箱」による保存
ヒル・ハウスは現在、深刻な保存問題を抱えています。外壁のモルタルが、百年にわたりスコットランドの雨を吸い続け、壁体が湿気で傷み続けているのです。
管理団体は応急の解体修理ではなく、異例の手段を選びました。家全体を金網の巨大な覆い(ボックス)で包み、雨を遮って乾かしながら、時間をかけて修復するという方法です。
覆いには見学用の通路が組み込まれ、修復中の家を上から眺められます。保存そのものを公開の展示に変えた試みとして注目されています。訪問される場合は公開状況の最新情報をご確認ください。
施主は出版社の経営者
施主のウォルター・ブラッキーは、グラスゴーの出版社ブラッキー・アンド・サンの経営者でした。
マッキントッシュは、この出版社の本の表紙のデザインも手がけており、二人のつながりは、住宅の設計だけにはとどまりませんでした。
ブラッキーは、設計を始める前にマッキントッシュを自宅に招き、家族の暮らしを観察させたと伝えられます。暮らしを知ってから形を考えるという進め方です。ブラッキー一家は、この家で長く暮らしました。
窓辺の居場所
居間の南側には、大きく張り出した窓があり、その内側に造り付けの腰掛けが設けられています。
冬の短い日差しを受けながら、庭と遠くの海を眺められる場所です。寝室にも、窓際に造り付けの家具が組み込まれています。
窓辺を部屋の中の小さな「居場所」として設計する。家具と建築を分けずに考えるマッキントッシュらしい工夫です。
マッキントッシュのその後
マッキントッシュは、グラスゴーで名声を得たものの、やがて仕事に恵まれなくなり、1910年代にイギリス南部へ移りました。
晩年は南フランスで水彩画を描いて過ごし、1928年にロンドンで亡くなります。晩年の水彩画には、明るい色の風景が描かれています。
生前は十分に評価されませんでしたが、20世紀後半になって再評価が進み、いまではスコットランドを代表する芸術家の一人として広く親しまれています。
妻マーガレット・マクドナルドとの協働
ヒル・ハウスの室内には、マッキントッシュの妻で芸術家のマーガレット・マクドナルドの手が多く入っています。
刺繍や金属のパネル、壁の装飾などを数多く手がけ、繊細な曲線と色で、白い空間にやわらかさを加えました。
マーガレットの作品は、家の中のあちこちで見ることができます。
二人は「グラスゴー派」と呼ばれる芸術家の仲間の中心にいて、建築と工芸を一体に考える仕事を続けました。
グラスゴー美術学校と2度の火災
マッキントッシュの代表作としてもう一つ知られるのが、グラスゴー美術学校(1897〜1909年)です。
しかしこの建物は、2014年と2018年に大きな火災に見舞われました。特に2018年の火災では建物の大部分が焼け、修復のあり方をめぐって議論が続いています。
こうしたなかでヒル・ハウスは、失われつつあるマッキントッシュの空間を今も実際に体験できる貴重な場所になっているのです。
美術学校の建物は、長く学生と建築家を育てる場として使われてきました。
保存の「箱」を設計した建築家
ヒル・ハウスを包む金網の覆いは、ロンドンの設計事務所カーモディ・グローク(Carmody Groarke)が設計し、2019年に完成しました。
覆いは雨を防ぐと同時に風を通し、湿った壁を少しずつ乾かす役割をもっています。
中には通路が設けられ、訪れた人は屋根の高さから家全体を見下ろすことができます。保存の工事そのものを見どころにした、新しい試みです。覆いの中を歩く体験は、修復が続くあいだだけのものです。
見学するには
ヒル・ハウスは、グラスゴーから電車で1時間ほど、クライド湾に面した静かな町ヘレンズバラの高台にあります。最寄りの駅から、坂道を歩いて向かうこともできます。
ナショナル・トラスト・フォー・スコットランドが管理し、季節によって、公開日や時間が変わります。事前に公式の案内で確認してください。
室内の白い寝室や居間と、外の金網の「箱」から眺める屋根の両方を体験すると、百年前の新しさと、それを守る今の工夫が同時に見えてきます。
近代住宅の系譜のなかで
ヒル・ハウスは、アーツ・アンド・クラフツの手仕事と、来るべき抽象のあいだに立つ家です。源流には レッド・ハウス(ウィリアム・モリス)があり、下流には白い近代住宅の系譜が続きます。
土地の伝統に立ちながら新しい室内を発明する、という課題設定は、半世紀後の グロピウス邸 や 前川國男邸 にも受け継がれました。住宅の近代は、各地でそれぞれの素材と気候を相手に始まったのです。

