道路まで建てなかった
シーグラムビル(1958年/アメリカ・ニューヨーク)は、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンが設計したオフィスビルです。
特徴は、建物より建てなかった場所にあります。当時のニューヨークでは、敷地いっぱいに建てるのが当然でした。ここでは建物を敷地の奥へ大きく後退させ、前面に広い石張りの広場を残しています。
外装はブロンズとブロンズ色ガラス。年月とともに黒く落ち着いていく素材が選ばれました。
広場が、法律を変えた
この広場は、単なる意匠ではありませんでした。
シーグラムビルの成功を受けて、ニューヨーク市は1961年に「公開空地を設ければ、その分だけ床面積を増やしてよい」という制度を導入します。
結果として、その後のマンハッタンには広場付きの高層ビルが次々と建ちました。一棟の建築が、都市のルールを書き換えた数少ない例です。
コルビュジエの「地面を返す」との比較
「建物が占有した地面を人に返す」という主題は、コルビュジエがピロティで追求したものと同じです。
ただし方法が違います。
コルビュジエは、建物を持ち上げて下を空けた。建物の真下が公共空間になります。
ミースは、建物を後ろに下げて前を空けた。建物の外側が公共空間になります。
断面図を並べると、この違いがはっきりします。垂直方向に空けるか、水平方向に空けるか。同じ問題への別解です。
柱を、外に出せなかった
ミースには、もう一つ挑戦がありました。鉄骨の構造をそのまま外に見せたかったのです。
しかしアメリカの防火規定では、鉄骨をコンクリートで被覆する必要がありました。露出させられない。
そこでミースは、被覆された柱の外側に、構造としては不要なブロンズのI形材を取り付けました。構造そのものではなく、構造を示す記号です。
この判断は「正直でない」として長く議論されてきました。見せることと、実際に支えていること——その関係をめぐる問いが、この立面に埋め込まれています。
いま何が残ったか
シーグラムビルは、その後の世界のオフィスビルの原型になりました。ガラスの箱に広場という形式は、いまも各国の都心で反復されています。
一方で、量産された広場の多くが風が強く人が滞在しない空間になったことも指摘されてきました。ジェイン・ジェイコブズらの批判は、この点にも向けられています。
コルビュジエ側のピロティを図面で確かめたい方は、下記の手描き構想図をご覧ください。
📖 あわせて読みたい
ル・コルビュジエが人生の最晩年に辿り着いた、わずか8畳の極小世界遺産「キャバノン」と愛妻イヴォンヌとの深い愛の物語を紹介しています。


