広島市の中心部、基町(もとまち)に建つ高層アパート群は、1970年代に完成した大規模な公営住宅です。設計の中心は大高正人。
原爆の後にバラックが密集した一角を、屋上庭園と人工地盤を備えた立体都市に建て替えるという、日本の戦後復興でも例のない事業でした。
コルビュジエのユニテ・ダビタシオンの思想が、日本でもっとも大きな規模で実を結んだ場所です。
| 名称 | 基町高層アパート(市営基町高層アパートなど) |
|---|---|
| 所在地 | 広島市中区基町。広島城の近く、太田川沿い |
| 設計 | 大高正人(大高建築設計事務所) |
| 建設 | 1969年着工、1978年7月竣工 |
| 戸数 | 改良住宅1,886戸と公営住宅1,059戸、計約2,900戸 |
| 特徴 | 「く」の字に折れて連なる最高20階の住棟、屋上庭園、ピロティ、人工地盤 |
| 評価 | 2013年度にDOCOMOMO JAPANの選定作品 |
| 見学 | 現役の公営住宅。住民の暮らしに配慮して外観や公開空間を見る |
原爆スラムと呼ばれた場所
基町は広島城に隣接する市の中心部です。1945年の原爆で市街が失われた後、この一帯の河岸には住まいを失った人々のバラックが密集し、「原爆スラム」と呼ばれる状態が長く続きました。
行政は1960年代末から、この地区の全面的な建て替えに乗り出します。求められたのは、数千戸の住まいを、狭い敷地に、緑を残しながら供給すること。高層化はその答えでした。
折れ曲がる高層の壁
基町の住棟は、まっすぐな板状ではありません。「く」の字に折れながら連結し、蛇行する壁のように敷地を囲みます。最高部は20階に及び、当時の公営住宅としては突出した高さでした。
折れ曲がる配置には理由があります。単調な平行配置を避け、住棟のあいだに囲われた広場をつくり、どの住戸にも日照と眺望を配る。壁のような建築で、壁に囲まれた谷間をつくらないための操作でした。
屋上庭園と人工地盤
住棟の屋上は緑化され、階段状に下がる屋上庭園が計画されました。足元には人工地盤が敷かれ、駐車場や設備を地盤の下に収めて、地上のレベルを歩行者と緑に開放する構成がとられています。
ピロティ、屋上庭園、歩車分離。これらは近代建築の五原則とコルビュジエの都市論の語彙そのものです。理念の直輸入ではなく、日本の公営住宅の制度と予算のなかで実装した点に、この団地の価値があります。
設計者は前川事務所で育った
大高正人は、コルビュジエの直弟子・前川國男の事務所で長く働いた後に独立した建築家です。つまり基町は、コルビュジエ→前川→大高という師弟の系譜の三代目にあたる仕事です。
大高はメタボリズム運動にも参加し、人工地盤の上に住まいを重ねる構想を各地で追求しました。香川県の坂出人工土地はその代表例です。基町は、その構想がもっとも大きな規模で実現した現場でした。
前川の系譜はコルビュジエの日本人の弟子たちをご覧ください。
ユニテとの共通点と違い
マルセイユのユニテ・ダビタシオンは、337戸の住まいと共用施設を一棟に積んだ「垂直の都市」でした。基町も、住棟に商店や学校などの生活機能を組み込み、団地全体でひとつの街として計画されています。
違いは、単体か群かです。ユニテが一棟の彫刻的な完結を目指したのに対し、基町は複数の住棟が連結して都市の地形をつくる方向へ進みました。単体の理念を、群の計画に翻訳した。ここが日本版と呼ばれる所以です。
ピロティの下の商店街と、暮らしの施設
住棟の1階はピロティになっていて、その下には商店街が設けられています。雨の日でも濡れずに買い物ができる、屋根付きの通りです。
団地の中には、ほかにも学校、幼稚園、保育所、公衆浴場、診療所などが組み込まれました。住まいと暮らしの施設を一体で計画したのです。
住むこと、買うこと、学ぶこと、休むことが、一つの団地の中で完結する。これはマルセイユのユニテが一棟の中で試みたことを、団地の規模で実現したものといえます。
住棟の屋上には庭園が設けられ、住民が上って散歩や休息をする場所として計画されました。
屏風のように折れる住棟の理由
とくに特徴的なのが、18〜20号棟の配置です。高層の住棟が屏風のように折れ曲がりながら連なっています。
このジグザグの配置は、どの住戸にもできるだけ均等に日照と眺望が届くように考えられたものです。まっすぐな板状の棟を並べるより、南向きの面を多く確保できます。
折れ曲がった棟が囲む内側には広場や緑地が生まれ、外の騒がしさから少し守られた、落ち着いた場所になっています。上空から見ると、これらの住棟は大きく蛇行する帯のように見えます。
大高正人という建築家
設計した大高正人(1923〜2010年)は、前川國男の事務所で長く経験を積んだのち独立しました。
1960年には、建築を生きものの新陳代謝になぞらえて考える「メタボリズム」のグループに加わり、人工地盤の上に住まいを重ねる構想を追い続けます。
大高は、目立つ造形よりも、多くの人が長く暮らせる都市の仕組みを大切にした建築家でした。基町高層アパートは、その考え方がもっとも大きな規模で形になった仕事です。
ほかの代表作には、千葉県文化会館(1967年)や、香川県の坂出人工土地などがあります。
「改良住宅」という仕組み
戸数の内訳にある「改良住宅」とは、住環境の悪い地区を改善する事業で、住まいを取り壊された人々のために用意される住宅のことです。
基町では、河岸に密集していたバラックに暮らしていた人々が、新しい高層住宅へ移り住みました。もとの住民が同じ場所に住み続けられるように計画された点が、この事業の大切なところです。
住み慣れた土地を離れずに、安全で衛生的な住まいを得る。基町高層アパートは、戦後の広島が抱えた課題への、具体的な答えでもありました。
訪れるときのヒント
基町高層アパートは、平和記念公園から北へ歩いて20分ほどの場所にあります。広島城や太田川の河岸とあわせて歩くことができます。
ピロティの下の商店街や、住棟に囲まれた広場は、団地の暮らしの場です。住民の方の迷惑にならないよう、大声や長時間の撮影は控えましょう。
河岸の対岸から眺めると、折れ曲がる住棟が連なる全体の姿がよく分かります。
広島県のウェブサイト「ひろしまたてものがたり」でも、県内の重要な建物の一つとして紹介されています。
数字で見る基町
1969年の着工から1978年の竣工まで、事業はおよそ10年に及びました。建てられた住戸は、改良住宅と公営住宅をあわせて約2,900戸です。
住棟の最高部は20階に達し、1970年代の公営住宅としては、際立った高さでした。
2013年度には、近代建築の記録と保存に取り組むDOCOMOMO JAPANによって、日本の重要な近代建築の一つに選ばれています。
いまも人が住み続ける
基町高層アパートは現在も現役の公営住宅で、数千人が暮らしています。
竣工から半世紀を経て、住民の高齢化や空き住戸といった課題も抱えていますが、解体されずに使われ続けていること自体が、この計画の底力を示しています。
近年は、戦後住宅史の重要作として再評価が進み、見学や研究の対象にもなっています。広島を訪れる機会があれば、平和記念公園とあわせて、復興のもうひとつの現場であるこの団地の姿も見てほしいと思います。
丹下健三の広島での仕事ともつながる場所です。

