ル・コルビュジエの影響が最も広く、そして最も批判されたのは、建築ではなく都市計画の領域です。1925年に刊行された『ユルバニスム』は、20世紀の都市の形を実際に変えました。何が実現し、何が誤りだったのかを整理します。
1925年に刊行された都市論
ユルバニスム(urbanisme)はフランス語で都市計画を意味します。同名の著書は1925年の刊行で、『建築をめざして』(1923年)の2年後にあたります。
内容は、それまで雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』に発表してきた都市論をまとめたものです。1922年に発表した「300万人の現代都市」の構想が中核にあります。300万人の現代都市 をご覧ください。
四つの原則にまとめられる主張
コルビュジエの都市論は、おおむね次の四点に整理できます。
①都心の人口密度を上げる。ただし高層化によって建築面積を減らす。②交通を分離する。歩行者と自動車、通過交通と生活道路を分ける。③緑地を増やす。建物を高くした分の地面を開放する。④用途を機能別に分ける。住む場所、働く場所、憩う場所、移動を、それぞれ別のゾーンにする。
この四点は、後に「公園の中の塔」という言い方で要約されるようになります。
既存の都市を否定するという前提
この構想には、大きな前提がありました。既存の街区を一掃してよいという前提です。
1925年に発表された「ヴォアザン計画」は、パリ中心部の広い範囲を取り壊し、十字形平面の高層ビルを配置する案でした。歴史的な街区が対象に含まれています。実現していれば、現在のパリは存在しません。
彼にとって旧市街は、日照と通風と衛生を欠いた場所でした。改善ではなく置換が答えだったのです。ヴォアザン計画 に詳しくまとめています。
実行されたのはどこか
パリでは実現しませんでしたが、この都市モデルは戦後に世界中で実行されました。
コルビュジエ本人が関わった最大の例が、インドのチャンディガールです。パンジャーブ州の新首都として、1950年代に計画されました。碁盤状のセクターに分割し、機能ごとにゾーニングし、幅の広い道路で結ぶ。ユルバニスムの原則が、そのまま都市になった数少ない事例です。
さらに広い影響は、彼が直接関わらなかった場所で起きました。戦後の欧米や日本で建設された大規模団地の多くが、この考え方に基づいています。チャンディガールの都市計画 をご覧ください。
ジェイン・ジェイコブズによる批判
1961年、ジャーナリストのジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』を刊行します。この本は、コルビュジエ型の都市計画を正面から批判しました。
批判の要点は、街路の消滅にありました。建物を公園の中に散らすと、人が歩く街路がなくなります。街路がなければ、道に面した店も、行き交う人の視線も生まれない。ジェイコブズは、その視線こそが街の安全と活気を支えていたと論じました。
機能を分けることも批判の対象でした。住む場所と働く場所を分ければ、どちらも一日の半分は無人になります。時間帯によって死ぬ街ができてしまう、というのです。
何が誤りで、何がそうでなかったか
今日の評価は、おおむね次のように整理できます。
誤りとされる部分:既存の街区を一掃してよいという前提、用途を厳格に分けるゾーニング、街路を廃して建物を独立させる配置。これらは実行された地域で問題を生み、多くが後に修正されました。
誤りとは言えない部分:日照と通風を確保するという目標、歩車分離という発想、都市に緑地が必要だという主張。これらは現在も都市計画の基本に含まれています。
コルビュジエが取り組んだのは、19世紀の工業都市が抱えた過密と不衛生という現実の問題でした。問題設定は正しく、解法が極端すぎたという評価が妥当なところです。
都市論を読む前提として
コルビュジエの都市論は、建築作品とは切り離して評価される傾向があります。作品は今も高く評価される一方、都市計画は失敗例として扱われることが多い。
ただし両者は同じ原理から出ています。機能から形を導き、標準化によって質を担保し、原理を反復する。住宅の規模では有効だった方法が、都市の規模では別の結果を生んだ。この落差そのものが、20世紀建築の教訓として残されています。
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