1922年、パリのサロン・ドートンヌに一つの都市模型が展示されました。300万人が暮らす都市。設計者はまだ実作の少ない35歳の建築家、ル・コルビュジエです。この構想が、彼のその後の都市論すべての出発点になりました。
1922年のサロンに置かれた模型
サロン・ドートンヌは、パリで毎年開かれていた美術展です。絵画や彫刻が並ぶ会場に、コルビュジエは巨大な都市模型と図面を持ち込みました。
依頼された計画ではありません。誰にも頼まれていない構想を、自分で作って展示したものです。この時期の彼は、雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』でも同じことをしていました。作品を待たずに主張を先に出す、という手法です。エスプリ・ヌーヴォー をご覧ください。
中心に十字形の超高層ビルを置く
構想の中核は、都市の中心に配置された十字形の平面を持つ超高層オフィスビルでした。ガラス張りの塔が、広い間隔をあけて整然と並びます。
十字形が選ばれたのには理由があります。四方向に翼を伸ばせば、すべての執務空間が外壁に面する。どの席にも自然光と外気が届くという条件を満たすためでした。
当時のパリに超高層ビルは存在しません。アメリカで摩天楼が建ち始めた時期であり、その形式をヨーロッパの都市に持ち込む提案でもありました。
同心円状に配置された居住区
中心の業務地区を囲むように、居住区が配置されます。集合住宅は連続した帯状に、あるいは中庭を持つ街区として並べられました。
さらに外側には工業地区と緑地帯。中心から外へ、機能ごとに層をなす構成です。住む・働く・憩う・移動するという四つの機能を分けて配置するという考え方が、ここですでに完成しています。
地面をすべて公園にするという発想
この構想でもっとも重要な発想は、建物を高くすることで地面を空けるという点にあります。
同じ人口を低層で収容すれば、地面は建物で埋まります。高層化すれば建築面積は減り、余った地面を公園にできる。コルビュジエの計算では、都市の大部分が緑地になるはずでした。
「高層建築=過密」という直感とは逆の論理です。高くすることで、空けるための構想だったという点は、この計画を評価するうえで外せません。
この構想が生まれた背景
19世紀から20世紀初頭の欧州の都市は、深刻な過密と不衛生を抱えていました。日照のない路地、通風のない住居、結核の蔓延。
コルビュジエの都市構想は、この現実への応答として書かれています。抽象的な理想ではなく、公衆衛生の問題として都市を考えたという文脈を押さえると、極端に見える提案の動機が理解しやすくなります。
同じ時期、アルヴァ・アアルトは結核療養所を設計していました。日照と通風は、当時の建築家にとって共通の課題でした。パイミオのサナトリウム をご覧ください。
ヴォアザン計画と輝く都市へ
「300万人の現代都市」は、架空の平地に描かれた構想でした。3年後の1925年、コルビュジエはこれを実在の都市に当てはめます。パリ中心部を対象とした「ヴォアザン計画」です。
さらに1930年代には「輝く都市」へと展開します。同心円状の構成を捨て、人体になぞらえた線状の構成へ変わりました。原型はここにあり、その後は変奏という関係です。
ヴォアザン計画、輝く都市、そして都市論全体の評価は ユルバニスム にまとめています。
実現しなかった構想が持った影響力
この都市は、どこにも建設されませんでした。それでも20世紀の都市に与えた影響は、実現した多くの計画より大きいと言えます。
模型と図面と雑誌記事という形で流通し、各国の都市計画家がそれを参照した。建てられなかったからこそ、原理として純粋なまま伝わったという側面があります。
実際にコルビュジエ自身が都市規模で実現できたのは、インドのチャンディガールだけでした。チャンディガールの都市計画 をご覧ください。

