ロースハウスは、アドルフ・ロースが1911年に完成させたウィーンの商業ビルです。場所はミヒャエル広場。ハプスブルク家の王宮の正面という、帝都でもっとも保守的な一等地に、装飾のない建物が建ちました。
街は騒然となり、この建物は「眉のない家」と呼ばれることになります。
| 名称 | ロースハウス(Looshaus) |
|---|---|
| 所在地 | オーストリア・ウィーン、ミヒャエル広場(王宮のミヒャエル門の向かい) |
| 設計 | アドルフ・ロース |
| 建設 | 1909〜1911年 |
| 施主 | 紳士服の仕立て店ゴールドマン&ザラチュ |
| 外装 | 下層は緑の筋模様の大理石と円柱、上層は装飾のない白い壁 |
| 現在 | 銀行が使用。1階の一部に入ることができる |
王宮の正面という最悪の立地
施主は紳士服の仕立て店ゴールドマン&ザラチュ。店舗と住居の複合ビルとして計画されました。敷地は王宮の門と向かい合う広場の角です。
ウィーンの中心部は、歴史様式の装飾で覆われた街です。そのど真ん中、しかも皇帝の窓から見える位置に、コーニスも彫刻も持たないビルを建てる。
ロースが装飾否定の論客として知られていたことも相まって、着工前から注目を集めました。
「眉のない家」という悪口
完成した建物の上層階は、白い壁に窓が並ぶだけの立面です。当時のウィーンの窓には、上部に庇状の装飾(窓まぐさ飾り)を付けるのが常識でした。それが無い。
市民はこれを「眉のない家」と呼びました。顔にたとえれば、窓は目、その上の飾りは眉。眉を剃り落とした顔のようだ、という悪口です。論争は新聞をにぎわせ、工事が一時止まったと伝えられるほどでした。
皇帝がこの建物を嫌ったという逸話も広く語られていますが、これは伝聞の域を出ません。
下は大理石、上は沈黙
ただし、この建物は「何もない箱」ではありません。店舗の入る下層は、緑がかった大理石とトスカナ式の円柱で仕上げられています。石の選定は贅沢で、磨かれた表面が広場の光を映します。
つまりロースは、装飾を全否定したのではなく、住み分けを主張しました。商業の階は素材の豊かさで飾る。人が住む階は沈黙する。彫り込む装飾はやめ、素材そのものに語らせる。
シュタイナー邸と同じ論理が、公共の場でより大きなスケールで実行されています。シュタイナー邸 とあわせてご覧ください。
論争がロースを有名にした
ロースハウス論争は、結果としてロースの名を国際的にしました。批判の的になることで、装飾をめぐる議論が新聞の紙面に載り、建築の専門誌の外へ出た。建物そのものが、論考より強いメディアになったのです。
この構図は、後の近代建築運動が学んだ教訓のひとつです。コルビュジエが雑誌と展覧会で論争を仕掛け続けたのも、主張は建物と言葉のセットで初めて広まる、という認識があったからでした。
装飾の否定は、貧しさの推奨ではない
ロースの主張は「装飾は罪悪である」という標語で流通していますが、原題は『装飾と犯罪』であり、論じられているのは装飾に費やされる職人の労働と時間の経済です。
様式の彫刻に人生を費やすことが、20世紀の文化では割に合わなくなった、という議論でした。
だからロースハウスの下層には、高価な石が惜しみなく使われています。飾りを彫るのではなく、良い素材を選ぶ。否定されたのは装飾であって、豊かさではない。
この区別を落とすと、ロースも、その影響を受けた近代建築も読み違えます。標語の系譜は 建築家の名言を出典から読む に整理しています。
アドルフ・ロースという建築家
アドルフ・ロース(1870〜1933年)は、現在のチェコのブルノに生まれ、ドイツで建築を学んだあと、若いころに約3年間アメリカで暮らしました。
アメリカで見た合理的な暮らしや工業の力が、のちの装飾批判の土台になったとされます。ウィーンに戻ってからは、住宅や店舗、カフェの設計、そして鋭い評論で知られるようになりました。
代表的な論考「装飾と犯罪」は、1910年前後の講演に由来するとされます。晩年は病に苦しみ、1933年に亡くなりました。
ミヒャエル広場という場所
ロースハウスが面するミヒャエル広場は、王宮の北西の入口にあたる、ウィーンの中心中の中心です。
広場の中央には、発掘された古代ローマ時代の遺構が見えるように整えられています。2000年の歴史が地面の下に重なる場所に、ロースは装飾のない建物を建てたのです。
古代の遺跡、帝国の王宮、そして近代の商業ビル。広場に立つと、ウィーンの時間の重なりを一度に見渡せます。
ロースからコルビュジエへ
ロースの論考「装飾と犯罪」は、1920年代にコルビュジエの雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』にフランス語で掲載されました(エスプリ・ヌーヴォー)。
ウィーンで生まれた装飾批判は、パリの新しい建築運動に受け継がれていきます。
ただし、ロースが素材の豊かさを大切にしたのに対し、コルビュジエは白い壁と比例で空間をつくりました。同じ出発点から、違う答えが生まれたのです。
窓の下に置かれた植木鉢
論争が続くなかで、ロースは一つの妥協をしました。上層の窓の下に、花を植えた植木鉢の箱を取り付けたのです。
彫刻の飾りは付けない。しかし、花なら窓辺を和らげることができる。装飾の否定という主張を曲げずに、街の人々の感情にも応えた解決です。
この植木鉢は、いまもロースハウスの窓辺に見ることができます。季節によっては、実際に花が咲いています。
緑の大理石を探して
下層を覆う緑がかった大理石は、ギリシャのエヴィア島で採れる「チポリーノ」と呼ばれる石です。
ロースは、この石を選ぶために自ら産地を訪れたと伝えられています。石の模様が左右対称に並ぶように割り付けられ、石そのものが一枚の絵のような表情を見せています。
彫刻を施す代わりに、最良の素材を探し出す。ロースの考える「豊かさ」が、ここによく表れています。
ロースを支えた作家カール・クラウス
ロースハウスをめぐる論争のなかで、ロースを強く支持した人物がいました。ウィーンの作家・批評家カール・クラウスです。
クラウスは、言葉の飾りや偽りを厳しく批判した書き手で、建築の装飾を批判したロースと深く共鳴していました。
言葉の世界と建築の世界で、同じ「飾りへの批判」が進められていたことは、20世紀初めのウィーンの知的な空気をよく伝えています。
いま訪ねるなら
ロースハウスは、ウィーン中心部のミヒャエル広場にあり、王宮を見学する際にすぐ目に入ります。現在は銀行が使っており、1階の一部に入ることができます。
内部には、ロースが設計した階段や吹き抜けの空間が残っています。営業時間や入れる範囲は変わることがあるため、訪れる前に確認しましょう。
広場に立って、王宮の装飾豊かな門とロースハウスを見比べてみてください。100年前の論争の構図が、今もそのまま目の前にあります。
百年後のロースハウス
ロースハウスは現存し、ミヒャエル広場に今も建っています。周囲の歴史様式の建物と並べて見ると、当時の衝撃は薄れ、むしろ石と漆喰の落ち着いたビルに見えます。
論争の的だった建物が街に馴染むまでの百年は、装飾をめぐる感覚がどれだけ動いたかの目盛りでもあります。
同時代のウィーンには、オットー・ワーグナーの ウィーン郵便貯金局 があり、装飾からの離脱を別の道筋で進めていました。世紀末ウィーンの装飾の側は ストックレー邸 をご覧ください。

