造船で儲けた金で、絵を買い続けた男
松方幸次郎(1866–1950)は、川崎造船所の社長を務めた実業家です。第一次世界大戦期の造船需要で巨額の利益を得た彼は、その資金でロンドンとパリを回り、西洋美術を大量に買い集めました。
目的は投機ではありませんでした。「日本の若い画家たちに、本物の西洋絵画を見せたい」——本国に美術館をつくり、そこに収めるつもりで買っていたと伝えられます。モネ、ゴッホ、ゴーギャン、ロダンの彫刻。集められた作品は数千点に及び、のちに松方コレクションと呼ばれることになります。
コレクションは、三つに引き裂かれた
しかし計画は実現しませんでした。1927年の金融恐慌で川崎造船所は経営危機に陥り、松方は私財を投じて責任を負います。
コレクションの運命は分かれました。日本に運ばれていた作品は債権者の手で売却され、散逸します。ロンドンに保管されていた分は倉庫の火災で焼失しました。そしてパリに残されていた約400点は、第二次世界大戦の勃発によって敵国人財産としてフランス政府に接収されます。
一人の実業家が20年かけて集めたものが、恐慌と火災と戦争によって三方向へ失われた——それがこの物語の前半です。
返還の条件は「フランス美術館をつくること」
戦後、日本政府はパリに残った作品の返還交渉を始めます。フランス側が示した条件は、これらを収蔵・展示するための美術館を日本に新設することでした。単に返すのではなく、恒久的にフランス美術を伝える場をつくれ、という要求です。
こうして国立西洋美術館の建設が動き出します。そして設計者として指名されたのが、ル・コルビュジエでした。フランス政府が関わる案件である以上、フランスを代表する建築家が選ばれるのは自然な流れでした。コルビュジエは1955年11月に来日して上野の敷地を視察し、翌年7月に基本設計書を送っています。
松方は、完成した美術館を見ていない
ここにこの物語のもう一つの重さがあります。
松方幸次郎は1950年に亡くなりました。国立西洋美術館が竣工したのは1959年3月です。返還交渉が実を結ぶのも、コルビュジエが上野を歩くのも、建物が立ち上がるのも、すべて彼の死後の出来事でした。
自分のコレクションを収める美術館を建てたいという生前の願いは、本人が一度も見ることのないかたちで、しかも当初の構想とはまったく違う経路で叶えられたことになります。上野公園に建つあの建物は、そういう来歴を背負っています。
松方とコルビュジエは、会っていない
念のため記しておくと、松方幸次郎とル・コルビュジエが直接会ったことを示す資料は確認できていません。松方の没年(1950年)と、設計者が決まった時期を考えれば、接点がなかったと考えるのが自然です。
二人をつないでいるのは面識ではなく、絵という物体だけです。松方が買った絵が接収され、それを返すために美術館が必要になり、その設計をコルビュジエが引き受けた。人が直接出会わなくても、物を介して歴史が接続されることがある——この美術館は、その実例です。
いま上野で建築を眺めるとき、その建物がなぜそこにあるのかを遡っていくと、造船所の社長がロンドンの画商の前に立っていた1910年代にたどり着きます。
📖 あわせて読みたい
ル・コルビュジエが人生の最晩年に辿り着いた、わずか8畳の極小世界遺産「キャバノン」と愛妻イヴォンヌとの深い愛の物語を紹介しています。


