被爆地に建てられたカトリック聖堂
世界平和記念聖堂(1954年/広島市)は、原爆で破壊された幟町教会の跡地に建てられたカトリック聖堂です。
設計は村野藤吾。コンクリートの構造体に、地元産の材料を混ぜた特製の煉瓦が積まれています。塔が立ち、内部は縦長の高い空間で、側面のステンドグラスから光が入ります。
2006年に国の重要文化財に指定されました。戦後建築としては早い指定です。
設計競技で、1等が出なかった
この聖堂には、日本建築史に残る経緯があります。
1948年に設計競技が行われ、丹下健三を含む多くの建築家が応募しました。ところが審査の結果、1等該当なしとなります。そして審査員のひとりだった村野藤吾が設計者に指名されました。
審査員が設計者になるという異例の展開は、当時から議論を呼びました。同時にこの出来事は、戦後日本の建築界が何を求めていたかを示す事件でもありました。
村野藤吾と丹下健三
同じ広島で、丹下健三は広島平和記念資料館(1955年)を設計しています。ピロティで持ち上げられた水平な箱で、コルビュジエの語彙が明確に現れた建築です。
村野の聖堂は対照的です。手仕事の煉瓦、縦に伸びる塔、装飾的なディテール。近代建築の合理主義とは距離を置いています。
村野は生涯、モダニズムの原則に従わない立場を取り続けました。素材の手触りや職人の技術を重んじ、様式にも寛容だった。
同じ時期、同じ都市に、正反対の建築が2つ建った。戦後日本建築の分岐点が、広島に並んでいます。
「反コルビュジエ」という位置づけについて
村野藤吾はしばしば「反モダニズム」「反コルビュジエ」の建築家として語られます。
ただしこの位置づけには注意が必要です。村野自身がコルビュジエを名指しで批判したわけではありません。後年の建築史が、丹下との対比のなかで彼をそこに置いたという面が強い。
実際の村野は、近代的な構造技術を使いこなしながら、そこに手仕事の質を加えた建築家でした。単純な対立図式に収まる人ではありません。
図面で見る二つの解答
平和記念資料館と世界平和記念聖堂の断面図を並べると、違いが明確になります。
片方は地面から持ち上げられた水平の箱。もう片方は地面に据えられ、垂直に伸びる塊。同じ「祈りと記憶の場」という主題に、真逆の形が与えられたことが読み取れます。
コルビュジエ側の宗教建築を図面で確かめたい方は、下記のロンシャンの手描き構想図をご覧ください。
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