「実現しなかったコルビュジエ」—幻の東京計画から国連本部まで

「実現しなかったコルビュジエ」—幻の東京計画から国連本部まで

パリを更地にする?「ヴォワザン計画」

1925年、コルビジェ はパリの歴史的な中心部(マレ地区など)を全て取り壊し、そこに60階建ての十字型の超高層ビルを18本並べるという衝撃的な提案を行いました。これが「ヴォワザン計画」です。

当然ながら「歴史破壊だ」「狂気だ」と猛反発を受け、実現には至りませんでした。しかし、彼は本気でした。不衛生な過密都市を救うには、ジメジメした路地を撤廃し、太陽と緑を取り込む根本的な外科手術が必要だと信じていたのです。この幻の計画は、その後の世界中のニュータウン開発や、日本の高層団地建設に決定的な影響を与えました。

国連本部ビルのコンペ敗北と盗作疑惑

ニューヨークの国連本部ビル。今ではガラスのカーテンウォールが輝くスラブ状の美しいビルとして知られていますが、実はこの設計を巡って大きなドラマがありました。1947年のコンペにおいて、コルビジェの案(23A案)が実質的に採用されかけたものの、政治的な駆け引きの末、最終的にはアメリカの建築家ウォーレス・ハリソンらがまとめる形となりました。

コルビジェの名は正式な設計者としては残らず、アドバイザーの一人として扱われました。彼は「私のアイデアが盗まれた!」と激しく抗議し、生涯のトラウマとなりました。あの美しいビルは、コルビジェの夢見た摩天楼の具現化ですが、彼のサインはそこにはないのです。

ソビエト宮殿と権力との闘争

1931年、モスクワのソビエト宮殿コンペに参加したコルビジェは、吊り構造の大胆な大ホールを持つ革新的なデザインを提案し、世界の建築家から「最高傑作」と高い評価を受けました。

しかし、独裁者スターリンが求めたのは、モダンで機能的なものではなく、頂上に巨大なレーニン像が立つような、古典主義的で権威的な「ウェディングケーキ」のような建築でした。結果、コルビジェ案は落選。「建築は政治に従属させられるのか」という深い絶望を味わいました。この敗北は、近代建築運動(モダニズム)全体にとっても大きな挫折でした。

幻の「東京計画1960」への影響

日本においても、コルビジェの影響を受けた壮大なアンビルトが存在します。丹下健三の「東京計画1960」です。東京湾を横断する巨大な海上都市構想は、師匠コルビジェの「輝く都市」や、アルジェ(アルジェリア)での「オビュ計画(巨大な帯状の住居)」のDNAを色濃く受け継いでいます。

これも実現はしませんでしたが、高度経済成長期の日本の勢いを象徴するプロジェクトとして、また日本のメタボリズム建築運動の金字塔として、世界に衝撃を与えました。コルビジェの遺伝子は、弟子たちによって形を変えて生き続けているのです。

敗北があったからこそ、ロンシャンが生まれた

大規模な都市計画や公共建築のコンペでことごとく敗北し、理解されなかったコルビジェ。しかし、その挫折のエネルギーが、晩年の制作に向かいました。「理論や政治で世界を変えるのは難しい。ならば、たった一つの建築で人の魂を震わせてやる」。

そうして生まれたのが、あの「ロンシャンの礼拝堂」です。論理を超えた、祈りと芸術の空間。それは、実現しなかった数々の「幻の都市」の屍の上に、奇跡のように咲いた花とも言えるでしょう。アンビルトの歴史は、彼の創造の源泉でもあったのです。